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2000年3月2日 Mars Global Surveyor Mars Orbiter Camera

マリナー7号のフライバイから7年。帰ってきた巨人の足跡。


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21世紀の扉が開こうとしている今、人類が火星に探査機を送ってから既に30年以上が経っていることは信じ難いことです。

火星に到達した最初の探査機は、1965年のマリナー4号でした。

それに続いて1969年にマリナー6号と7号の2機も成功しました。

1999年いくつかの失敗はあったものの、1997年9月に到着したマーズ・グローバル・サーベイヤーは、火星の不思議さと異星の美を毎日明らかにし続けて地球にデータを送ってきています。

火星探査は常に困難であり、火星から送り返されるデータのビットはどれも驚嘆すべきものです。

1969年8月5日、マリナー7号は最低高度およそ4200kmで火星を飛行しました。

この「接近遭遇」フライバイの数分の間に、広角度と望遠の組になった14枚の写真が撮られました。

これらの写真の1組の7N19/7N20には、当時「巨人の足跡」とあだ名をつけられた地形を含んだ南極地域が写っています。

上の2枚の写真には、地続きの2つのクレーター(1つは直径80km(50mi)でもう1つは直径50km(31mi)あり南緯76°西経276°に位置しています)が写ってういます。このマリナー7号の幾何学的に斜めの写真は足跡の印象を強調しています。

「巨人の足跡」はほとんど見えないので残念ですが、最近の火星探査の困難同様に、マリナー7号もトラブルなしではありませんでした。

実際この探査機は、7月30日のフライバイのわずか2、3日前にバッテリーの故障でマリナー7号と地球との通信を2日間も途絶えがちに陥らせる破局的な状態になりました。

ジェット推進研究所(JPL)の地上管制官は、この状態を回復させ、7月31日にマリナー6号のフライバイの結果を基に撮影シーケンスを組み立て直して、このミッションの科学目標の全てを救いました。

1970年代に、「巨人の足跡」はアメリカの微生物学者のVishniacに敬意を表して名づけられました。彼は火星の生命探しの手段開発に捧げたロチェスター大学の微生物学者です。

マリナー7号のフライバイから30年以上経って、マーズ・グローバル・サーベイヤーの火星軌道カメラ(MOC)が、1999年10月25日にこのVishniacクレター内部の記念的な光景を撮影しました。

下段の1組の写真は、1画素あたり3メーター(9.8フィート)の狭角度コンテキスト画像です。

マリナー7号の写真7N20は、1画素あたり約180メートル(591フィート)の通常解像度です。一方MOCの高解像度の写真はその60倍の精度を持っています。

MOCの高解像度写真(右下)は、Vishniacクレーターの底部1.5キロメーター(0.9マイル)幅の部分で南半球の春期に霜が溶けるプロセスを写しています。

明るいエリアはまだ霜に覆われていますが、暗いエリアは霜が溶けたか黒っぽいつまり汚れた霜ので構成されています。

画像の中の暗い帯は、風によって地上全体に吹き付けられた黒い縞の物資の源のようでうす。

この点と縞の模様は、1999年8月から1999年12月遅くまで続いた春期に溶ける南極冠では良く見られました。

ここで示される全ての写真は、右下から太陽光が照らしています。

写真は、マリナー7号の写真7N20で見える「足跡」を示す目的で、下側が北にしてあります。

マリナー7号の写真は、マリン・スペース・サイエンス・システムの JPLデータ保存活動によってオリジナルの7トラックの磁気テープからCD-ROMに保管されました。





画像はここで入手できます。


 
     
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